yuemashi on Twitter

駄考. 現代における国家総動員と「制度核」の可能性


 2010年11月30日から12月1日にかけて、Twitter上で「総動員は核を駆逐しうるのか」という議論を、@anti_tank_rifle さんと交わしました。そのことについて、@anti_tank_rifleさんから「総動員は核を駆逐しうるか?」というご意見のまとめを頂きましたので、それに対する私の考えを、つらつらと書き連ねようと思います。

1. 「実際核」と「制度核」
 まず、私は実際の兵器としての核を「実際核」とし、それに対して、核兵器と同様な戦争抑止効果を持つシステムを「制度核」としました。これはあくまでも私独自の勝手な呼び方ですから、もっと効果的な名前が付いているのかも知れません。ですが、他にいいものを思いつきませんでしたので。
 また「プレゼンス(存在感)」という言葉に関しましても、核兵器などの、敵国に直接かつ迅速な打撃を正確に与えてその戦争遂行能力を削ぐ、つまり「他国への攻撃可能意志のアピール」の事を「攻撃的プレゼンス」としました。対して、議論に上がっている総動員などの「侵攻に対しての持続的徹底抗戦意志のアピール」の事を「守備的プレゼンス」としました。

2.「実際核」のもつ「攻撃的プレゼンス」
 ここでまず考えるべきは、実際核と制度核の共通点と、その相違点でしょう。
 まず実際核について考えてみますと、第二次世界大戦中ヒロシマ・ナガサキに投下された原子爆弾が容易に想像されます。私個人としての意見では、少々感情的な表現をしますと、核兵器、つまり実際核のことですが、これは最大に非難を受けるべき最悪の兵器です。ですがここでは、私情を挟まずに実際に戦闘で用いられた場合の核兵器の効果を考えます。
 核兵器は大量破壊兵器でありますが、その破壊力は地表のみに作用し、地下数メートルにはほとんど影響を及ぼしません。つまり、敵戦力が地下に温存されていた場合、核兵器はその兵力に対して損害を与えることが大変難しいという特性を持つことになります。しかし、とはいえ地表の構造物に与える被害は計り知れないところがありますし、その放射能汚染によって街は死の街となることが予測されます。
 また、通常、核兵器は「遠隔攻撃手段」です。核兵器では、地下に温存されていた兵力には打撃を与えられませんから、その後の侵攻・占領という一連の作戦計画には繋がりにくいのです。この点では核兵器というものが、一般の作戦計画からは分離していると考えられるでしょう。
 
 しかし、核兵器が民間に与える打撃は甚大です。その相手国の国力を、大幅に削ぐことが出来ます。戦力は削ることが出来ないとしても、これは長期的なスパンで考えますと、有利になってくるとも考えることができそうです。
 ですが短期的なスパンで考えますと、核兵器の使用は全くの無意味と考えることが出来ます。打撃を与えるのはあくまでも「非戦闘員」ですから、その国の国力を削ぐことには繋がっても、戦争遂行能力にはほとんど影響をあたえることは出来ないと予測されます。
 つまり核兵器、「実際核」というのは平時における威嚇、すなわち「あなたの攻撃は、わたしの攻撃開始の合図」であり「あなたの国は、迅速に壊滅的な打撃を被るでしょう」という意志表示による、戦争抑止に意味がありそうです。この意思表示、実際核のもつ戦争抑止的な意味のことを「攻撃的プレゼンス」と考えます。

3.「制度核」としての「国家総動員」
 さて、ここまでで相当長い文になったわけですが。すみません、まだまだ続きますね。
 実際核のもつ攻撃的プレゼンスについてご説明しましたが、制度核について考える前に、総動員とは何か、制度核とは何かについて考えてゆきましょう。

 まず「国家総動員」についてご説明します。
 国家総動員とは、平たく言いますと「国民全体を兵士として戦争に動員する」という事をさします。このことを「国民皆兵」とも言うことがあります。またこの他にも「国家の全てを戦争に注ぎ込む」という事も含みます。
 通常、戦争の目的は、相手を屈服させて自国の主張を認めさせるという点にあります。過去何度も戦争が繰り返されてきましたが、特に近代戦争については「自国の領土の主張」や「自国の権益の主張」などを相手国に認めさせるために戦争が行われてきました。しかし、自国の利益のために戦争を開始するのに、結果的に戦争によって自国が疲弊しては、まさしく本末転倒です。この為に「戦争の速やかな終結」が近代国家の、一種の共通認識になってきたところがあります。
 分かりやすく説明しますと、戦争というのは「互いに戦争状態にあると認め合った国々」が「全力で攻撃しあう」という事ですから、平時とは比べものにならないほどのお金や人員が、凄まじいスピードで消費されてゆくことになります。つまり戦争状態の維持には、とんでもない国力が使われるということなのです。国力の疲弊は、戦争終結後にも直接的に響いてくることになりますから、近代の国家が「戦争は早期終結がベストである」と考えるに至った。と、いうことなのです。

 では侵攻される側で考えてみましょう。
 相手国が恐れているのは、戦争の長期化による自国の疲弊ですから、攻められる側としてみれば「戦争状態の安定的な持続」、すなわち「自国の疲弊を最小限に抑え」かつ「相手の戦力に対して継続的な出血を与え続ける」という事が重要であると考えられそうです。
 さて、今回ある国が、私達の国(ここではA国としましょう)に宣戦布告をおこなったと考えましょう。原因は、大義名分としては「長年の不当な搾取に対する、国民の怒り」でしたが、実際のところ、膨大な地下資源の権益をめぐるものでありそうです。さて、私達のA国は「国家総動員」の制度を持っています。宣戦布告に対して、政府は軍を即座に展開し、合わせて議会を緊急招集しました。議会は、与党・野党の事前協定に従って、満場一致で「国家総動員関連法」を可決しました。この法律には次のことが書かれています。

A. 国民の段階的動員(国民皆兵)
 私達が目標とするのは「自国の疲弊を最小限におさえ」かつ「相手の戦力に対して継続的な出血を与え続ける」ことでした。相手国に乗り込んで、直接攻撃を仕掛けることも可能ですが、これでは自国の疲弊が大きくなってしまいます。つまり私達は、自国に相手を侵攻させつつ、じりじりと出血させてゆく事を目指すことになります。幸いにも私達のA国には複雑な山岳地形や、整備された道路、鉄道が存在します。それぞれの町ごとに徹底的な抗戦を続ければ、相当な出血を相手に与えられると考えられます。
 ですが、軍は圧倒的に数が足りません。公募制の軍ですから、国全体に散らばるには人数が不足しているのです。そこで、一般の国民を兵士として動員する事が考えられます。これが狭義の「総動員」になります。
 無論、一般的な戦争知識や、簡単な武器弾薬の扱い方については高い割合で教習を受けています。ですが、彼らは前線に出向いて軍を支援するという訳ではありません。むしろ軍は、主力を温存しつつ、攻めこんできた敵に対して攻撃を与えながら、徐々に後退してきます。もちろん、敵は「戦争の早期終結」を目指して全力を尽くして攻めこんできますから、こちらも軍の全力を挙げて迎えうたなくてはなりません。そのために国土の防衛がおろそかになってしまうことが考えられます。その隙間を埋めるのが「動員」された「国民軍」な訳です。基本的には国民軍は、軍や政府の戦争計画に従う形で、国土に分散されてそこで武装・防衛を行い、敵の進軍に合わせて抗戦を行うことになります。このことを「郷土防衛」と言うこともあります。
 A国では、陸海空軍の他に「国民軍」を組織し、戦争が進行するに従って、段階的に16歳から40歳までの動員を行うことになっています。これは、一度に動員を行うと、国内の混乱が起こりかねない為です。又、柔軟性を持った作戦遂行のためでもあります。軍や政府の協議に従って、動員は進んでいくことになります。

B. 国内経済の動員
 A国はある程度の経済規模を持っていますが、国の予算は戦争遂行には圧倒的に不足しています。この為、政府は戦争のための資金や、武器弾薬などのための生産能力を一時的に確保する為に、国内経済を戦争に振り向ける事になります。
 政府管轄の公共事業は無論中断されますし、例えば石油などは、民間需要には最小限の振り分けとなり、電力などの基礎インフラや、軍の作戦用に振り分けられます。これは第二次世界大戦中の日本などでもおなじみかも知れませんが、この2つのことを合わせて「国家総動員」と呼びます。

 A国の国民軍は、攻めこんできた敵軍に対して地の利を生かした効果的な攻撃を続けます。この間にも軍は、まとまった攻撃を何回も敵主力に与え続ける事になります。A国では石油などの資源を海洋輸送に頼り切っていますので、艦隊行動に膨大な石油を使うことになる海軍は、この防衛にあたることになります。
 A国では数年間にわたって戦争状態を維持することを想定して、民間武器弾薬、石油等資源、食料を備蓄しています。当初の予測とは異なり、備蓄の消費が少々早く、1〜2年しか持たないことが判明しましたが、それでも相手国の「戦争の早期決着」という目論見を崩すことができそうです。

 国家総動員の目的はここにあります。つまり軍主力のみを戦争に用いるのではなく、国民全体を国民軍として全国に分散させて「どこに行っても敵がいる」という状況を作り出すことを目的としているのです。このことは相手に対して強烈な威嚇に成り得ます。相手国としては、攻め込もうにも敵主力が待ち構え、前進しても、敵がいなくなることがなく、攻撃が加え続けられる。だが攻めこまない限り相手国は屈服しないという、あまり好ましくない状況になります。
 ここで「制度核」の話に戻りましょう。
 国家総動員は、「わたしたちは国を挙げてあなたに徹底抗戦し、短期決着はありえない」という点と「我が国への侵攻は、継続的な出血の強要に繋がる」という意志の表示によって、戦争抑止を狙うものです。この意思表示のことを「守備的プレゼンス」と呼ぶことにします。「実際核」の戦争抑止に対して、同じような戦争抑止を行う国家総動員のようなシステムを「制度核」といいます。

4.「制度核」としての「国家総動員」の問題点
 さて><
 大分お話が長くなりましたが、残念ながらまだ終わりません。ごめんなさい。

 国家総動員を制度核として捉えた場合、いくつかの問題点がみえてきました。@anti_tank_rifleさんの指摘にもありますように、次のような問題点が挙げられます。

A. 徴募兵が現代の複雑化・高度化した戦闘に耐えうるか?
 動員された国民軍は、軍主力とは別個の作戦計画をもって、郷土防衛にあたることになります。もちろん、軍主力との協調はとられますが、基本的に軍主力とは分離した形で戦闘が行われるだろうことが考えられます。
 しかし、このことを考慮しましても、専門の訓練を受けた正規軍とは違い、国民はその練度が落ちることになります。国民軍は正規軍と違い「敵主力の壊滅」を目的とするのではなく、あくまでも「継続的な出血の強要」を目的とする組織ですので、高度な訓練は必要ありませんが、それでも心もとないのは確かです。
 国家総動員を制度として運用するためには、可能であれば基本教育課程に「軍事訓練」を組み込み、大学などの高等教育機関ではもっと高度な「指揮管制」の訓練が組み込まれる必要が考えられます。また、即応体勢を維持するために、定期的な軍事演習が必要となってきます。これを維持するのには、それ相応の国民の支持が必要です。ここが「制度核」として「国家総動員制度」を運用するためにぶつかる最初の難問と捉えられます。

B.「出血量」と「耐えられうる出血量」の問題
 国家総動員の前提として「国力の疲弊を最小限に抑える」というものがあります。
 ですが完全な戦力として整備された軍主力に対して、継続的な攻撃・郷土防衛を目的としている国民軍は脆弱であると予測されます。徹底抗戦のためにある程度の防御陣地が組織されるとしても、相手国主力の侵攻には基本的に為す術がありません。そのために、こちらの軍主力はある程度効果的な攻撃を敵主力に対して継続する必要がありそうです。
 これによって敵と味方国民軍の損害は、同程度とはいきませんが、ある程度その差を埋めることが可能です。また、仮にゲリラ的な戦闘をするとすれば、その損害差は更に縮まることが予測されます。こうなれば、相手国も同様な総動員を仕掛けてこない限り、比較的有利な状況を維持することもできそうです。
 ですが、国家総動員では生産人口のほとんどすべてを戦争に動員してしまいますから、戦争のあまりもの長期化は逆に自国の国力を疲弊させ、その存亡すら危うくなってしまうという危険性もはらんでいます。

5.「制度核」の問題点とまとめ
 「実際核」は先にもご説明しましたように、敵戦力に効果的な打撃を与えられないが、非戦闘員である民間人には甚大な被害を与えることから、「非人道的」として国際世論から非難される危険性も含んでいます。戦争で重要なのは「大義名分」であり「正義」であり、それを裏付けるのは国際世論なわけです。つまり戦争が始まってしまうと、「実際核」は現実的な価値を失ってしまうと予想されます。
 「制度核」はこの国際世論の裏付けによって、その力を最大限に発揮することが出来ます。@anti_tank_rifleさんの指摘にもありますように、相手国が軍事的な圧力をかけてきた場合、A国がそれに応じて毎回国家総動員を行っていては、国力が徐々に疲弊していく可能性があります。「制度核」では、この間に国際世論がその相手国に対して批判・圧力を与えるということを想定しています。但し、必ずしも国際世論が有利に働くとは考えられませんから、この点で戦争抑止力としての不安点が残ります。
 総動員のタイミングは、基本的に宣戦布告ですから、毎回の連続した総動員の発動は考えにくいですが、それでも国際世論の不確実性は「制度核」としての「国家総動員」の不安点であることに変わりはありません。国際世論を味方につけられなければ、いずれ国力は深刻に疲弊していく可能性があります。ですがこの点では、相手国も同じです。ですから世論操作はまた別のステージで議論されるべきなのでしょう。

 また「制度核」としての総動員でも、やはり周辺各国に対して緊張を及ぼします。国民の多くが戦闘員となることが出来るわけですから、その国の戦争能力は格段に強大化するわけです。この緊張状態を中和するのは、制度核の「守備的プレゼンス」なわけです。すなわち「相手国に壊滅的な打撃を与え」その戦争遂行能力を削ぐのではなく、「侵攻に対して継続的な出血を強要」して戦争遂行能力を削いでゆくという意思表示によって、緊張状態が緩和される面があると考えられます。
 対して「実際核」は「相手国に壊滅的な打撃を与える」という「攻撃的プレゼンス」を持ちますから、「制度核」としての国家総動員と共存させると、周辺各国に更に緊張を与えてしまいかねません。
 又、「制度核」としての国家総動員は、基本的に自国領土内での戦闘を基本としますから、明確な汚染のある「実際核」の使用はあまり好ましくないという面もあります。

 国家総動員は、平時における行使可能な軍事力を極力減らすことができ、周辺各国の緊張も最小限に抑えつつも、「制度核」として「守備的プレゼンス」による戦争抑止効果が得られると考えられます。
 わたしは、「実際核」すなわち核兵器による戦争抑止、平和維持ではなく、非核国家として「制度核」による戦争抑止・平和維持も考えられると思っています。必ずしも国家総動員がこの「制度核」に足りるものだとは思っていませんし、よりよい「制度核」としてのシステムが生まれる可能性も信じています。いずれにしても、我が国は核兵器による平和ではなく、「制度核」による平和についても議論する必要があるでしょう。

おしまい

inserted by FC2 system